昭和47年09月21日 朝の御理解



 御理解 第36節
 「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」

 一心になる。その事をここで事を分けて、道理をもって教えておられるのです。一つの事でも誰彼に、あの人にも頼みゃこの人にも頼むという事になると、責任をもってそれを世話をしてくれると言う様な事がなくなる。あの人に頼んであるから、あの人がどうにかしなさるだろうと言った様な、さんまんになる時がありますね。もうあなた一人にしか頼む人はありません。
 どうぞよろしゅうと言うと、その人が責任をもって、お世話でもするような道理だ。家を建てるにも、棟梁が何人もおると言う様な事では、棟梁は一人のものだという風に、道理を分けての御理解をなさってあります。ところが私共の在来の信仰とでも申しましょうか。神仏に願いと。どこの仏様にもどこの神様にも、あらゆる神々様に祈願を行うといったような事がです。
 一人でも多くの人に頼めば、それだけ多くの仏様やら、神様やらが、力を出し合うておかげを下さるというので、仏様にも頼めば、神様にも頼むというような考え方があるですね。神信心の上には、それではいけん。いうなら金光様一心と、そういう場合の一心という事もあります。拝むという事でもですね。それは一心不乱に拝む。仏様も拝みゃ、神様も拝む、お願いすると。それもやはり一心です。
 けれども私は思うのに、神信心もこの一心を出すと、直ぐおかげが受けられると仰る。直ぐおかげが受けられる程しの一心とは、どう言う様な一心だろうか。例えて申しますと、お道の信心が段々分かって参りますと、改式を致します。生きても死んでも金光大神のお取次を頂いて、天地の親神様のおかげを受けたいという願いからでございます。もう家は金光様一心だ一本だと腹決め、定めておる人はどの位あるか分かりません。
 けれどもそれが直ぐおかげが受けられると仰る様な、おかげには繋がってはいないように思うのです。私はきても死んでもあなた一心と定めましたと。そういう一つの証にはなるようですね。金光様金光様と言いよるけれども、やっぱり家では死んだら仏教で、この世でおかげを受けなければならん事だけは、生きた働きを下さる金光様、というのが又どの位あるか分かりません。
 そこで私の方は、金光教一本と言う様に、そういう一心を、一家中の者が、そういう事になって、改式でもさせて頂くという程しの事になってくるのですから。それは、おかげは受けますけれどもですね。それが直ぐにおかげになるというような事に、果して繋がっておるだろうか。確かにそういう一つの決断が出来ますとですね。おかげを受けます事は受けますですね。私共も本当におかげを頂き出したのは、やはり改式をしてからでしたですね。本当の意味に於ての、これは愈々揺るがない訳ですね。
 生きても死んでも、あなた一心という事の証ですから、改式をすると言う事は。私は今朝から大変な夢と言や大変な夢を頂いた。私は富士山の九合目よりももっと上かも知れんという感じの所に、住まいをしておる訳ですね。そしてちょっと窓を開けさせて頂いたところがですね。富士山の山頂が見えてる訳ですね。そしてそこ迄大水が入っておるというお夢でした。びっくりしました。
 そしたら後に久富正義さんがおりましてね。「親先生これはもうこのままなら、富士山が沈んでしまいますよ」と言う様な、とてつもないお夢でした。富士山と言や所謂日本一の山だと、霊峰富士とも言う位姿と言い、形と言い本当に四方の山を従えてそれこそ、頭に雪を頂いて、山頂に雪を頂いておる端麗な姿の富士の山。もうどういう意味でも矢張り日本一だと、こう思います。もう是は二十年も前の事だったでしょうか。
 正義さんが頂きましたお知らせに、正義さんの事について、私が頂いたお知らせです。「何でもよいから日本一を目指せ」と。何もかにもという訳にはいかん。是だけは人の追従を許さない。是だけは日本一と言う様な、願いを立てよという様な意味の御理解を頂いた事がありました。そういう様な事からだったでしょうか、今日私は富士山で、九合目以上も、大水が入っておると言う。後におるのは正義さん、そん時も自分一人のように思うとったけれども。
 こう窓を開けてみると、ここ迄も大水の来とると思うたら、後から是はもう愈々いけませんよ。富士山が沈んでしまいますよと言う様なお夢でした。どう言う様な事だろうかと。それは天地の働きというものが、それこそ一分でも一厘でも違われたら、太平洋の海の水が富士山を沈めてしまう程しの事になるという話を聞いた事があります。それは事実そうでしょうね。一分一厘間違いのない天地の働きがあっておるからこそ、こうやって安泰でおれる訳であって。
 もうちょっとその働きが、地球がちょっこっとばかり傾いただけでも、富士山はがばっと沈んでしまうという訳なんです。だからそういう意味の事ではなかろう。または世界中に言うなら地球上に、そういう一つの異変が起てです。あれは何々宗か何かで、そういう事を、地球上に大異変が起ると。そして○○宗、○○教を信心しておる人だけが、助かるんだと言う様な事を、唱えておる宗教があるという事も聞きました。言うなら金光様の信心頂いておる者だけは助かるけれども。
 もう他の者はその時に、皆終えてしまうのだと言う様な風に言ってもよい訳でしょう。その中でもです。金光様のご信心頂いておる者の中でも、本当の、真の信心に精進させて頂いておるという人だけが助かる、愈々の時には。そういう風にも私は今日感じました。そこで何時どの様な時であっても、自分だけは助かられると信じれる程しの、私は信心を頂いておかなければいけない。まあ是は合楽でですよね。正義さん辺りの人柄と言い、信心から言うてもです。
 合楽では合楽で真の人という様な人を探すなら、一番に指を数えられる人だと思うですね、久富正義さんという人は。そういうような感じがしました、お夢を頂いた時に。だから、合楽で何かという時に、生き残るのは、私と正義さんだけと言った様な感じのお夢でした。そこで私は今朝から、この三十六節を頂かせてもろうて、一心と言えば様々もう私は金光様一本だというのも一心でしょう。それは決して他の仏様やら神様やらを、軽蔑する事やら、亡きものにしょうという様な考えはさらさらない。
 また教祖様もそれを教えておられる。藪神小神の前を通っても、一礼をする様な心持ち。そういう心掛けが信心する者には大事だと。けれども頼むと言うたら、この方一心と心を定めいと。願うと言うたらこの方一心と言う事にならなければという風にも教えておられます。又、一心不乱に拝む心を乱さないで一心に拝む。是は金光教だけの事ではない。石のほこらでもいい。この柱なら柱を目当てにして一心に拝めばです。一心に拝めば奇跡を現わす位な、それはわが心に神が御座るからじゃとも仰る教祖は。
 一心を立つればわが心に神が御座るから、おかげになるのじゃという様な一心はある。一心も色々あるけれども、直ぐにおかげが受けられるという一心。それは愈々私が信心によって真の人にならせて頂こう、そして本当の信心。いわゆる真の信心を本気で分からせて頂こう頂こうという、その一念を燃やさなければならない。思うただけじゃいかん。真の信心が分かりたい、真の信心が分かりたいと言うておる人は沢山あります。真の信心とはどんな信心でしょうかと。
 真の信心がしたいと言う人は沢山ありますけれども。間違いのない言うなら真の信心に、一心と定め一心を燃やさせて頂くところから、例えて申しますとその願いというものは、程度の低い願いでありましても、一心不乱に拝んだり一心を立ててのところから、奇跡的なおかげを呼ぶ事もありますけれども。神様の心と一つになる一心。私は今日はそういう意味での、一心という事を聞いて頂きたい。そこで真の信心という事なのですけれどもです。また真に人にならせて頂こうという事ですけれども。
 中々これが真の人だという、手本があったにしても、それはその人その人によっての持ち味というものが違うのです。だから、誰彼の真似だけではいかんのです。また天地の親神様も、これだけ沢山の氏子、中にも、金光様のご信心させて頂く者を、信者氏子と、こう呼び掛けて下さる。その信者氏子の上に、神様の働きが始まる。その働きそのものはです。一人一人に、違うのです。昨日福岡の高橋さんが、朝の御祈念の後のお届けの時に、お届けをされました。
御承知のようにお寿司屋さんをなさっておられます。本店分店を併せて沢山な人を使っておられる訳です。本店の方にこの頃から入れました職人の中で、酔狂気のある職人がおる。この頃からも同じ職人同志、喧嘩をして怪我をさせたといった様な事があった。これから一期しませんからと言うので、そのまま置いてあったところが、昨日の朝あちらの職人さんが、小僧さんを連れて参って来ておりました。
 それで主人の高橋さんの袖を引いてから、「大将又あれが失敗をしました」という事であった。飲んで遅う帰って来てから、周囲の者に大変な迷惑を掛けた。しかも飲むと少し荒うなってから、皆がえずがるような感じだと。そこで高橋さん自身も本当に、そういうのがおったんでは困るから、他の者が迷惑をするからその職人を止めて貰うと言う様なお届けがあった。是は合楽流でとにかく神様が下さったものは、こちらから向うにお返しをする様な事はしない。神様が下さったものであるから頂いていく。
 例えば従業員の場合でもそうである。神様のお許しを頂いて入れた職人である。だから自分の考えでそれを、お前はそんな悪い事するなら止めさせると言った様な事はしないという行き方で、今日迄来ておられる。昨年もそういう職人が一人おってですね。その人は大分長くおってもう普通は大人しくて、とってもいい職人ですけれども一杯お神酒が入ると何日も何日も、続けて飲まなければならない。そして見境が付かん様になる。
 だからどうでも一つ、合楽でおかげを頂かにゃならんと言うて、連れて参って来られた。連れて参って来られたところが、綾部さんの所から焼酎を堤さん方が頼んであったのを、そこの物置場に置いてあったげなら、それが一本無くなっておったらしい。十本入りのつに九本しか入っとらん。だから綾部さんの所は間違いなしに十本持って来たけれども、堤さん方には九本しか行っとらん。まぁ持って来た持って来ないで、ちょっとした問題が起る位じゃった。
 けれどもないならと言うて、また一本持って来てあったところが、その後何日かしてからです。ここの村内の方がああた方に参って来た信者が、焼酎を一本さげて来てから、ここで飲みよった。そしてからそこに、藪の中に隠しとるですよと言うてから、わざわざ持って来て下さった。と言う様に酒と目をつけたら、見境がつかなくなる。例えばそういう職人の場合であっても、決して出すという事をされなかったです。
 こっちから出すという事を。ようやくおかげを頂いて、先方から身を引くと言う様なおかげを頂いたら、その後にまたそういう職人がやって来た。今度のはちっとばっかり荒か。人に怪我をさせるような事でも平気でやる。素面の時にはそうではないらしいけれども。そういう、まぁどういう因縁か分からないけども。それこそ巡りと思わにゃおられないという風にも感じておられる様である。ところが昨日の場合はです。
 そういう職人を堪えてあなたが店に置きなさるなら、他の職人小僧達迄がもうやむると言よりますと、こういう訳である。ですから私もそれはいっちょそんなら、断らにゃいかんなと言いたいところでございましたけれども。私は、一心という事はね、ままよという事でもあると思うのですよ。力を受けるというような事はね、何時も力を受けられるチャンスというのは、いつもありはしません言うならまさかの時です。そのまさかの時を、日頃頂いておる信心にもの言わせると言うかね。
 所謂ままよという心を出させてもらうという。例えば神様が許されてこの職人を店に入れておられるのであるから。それを自分の意志自分の思いで、その職人を出すという事は、御神意に背く事になる。その事がよし他の職人小僧達迄が、やめると言うてもままよという心を出す。これは私が教えてから、高橋さんそう思いなさいと言うたって、それが力になるのじゃない。高橋さん自身を神様は促しておられるのである。
 神様がいよいよ要らん者ならば、昨年の職人じゃないけれども、向うの方から自然に止めていくようなおかげも下さる。その職人を神様がまあだ出すなと言われるならです。出さんと言や、他の職人達は止めると言うてもです。ままよという腹、いわゆるどん腹です。そういう腹を据えさせて頂けれる信心を、私は、今日は一心だとも思うです。そういう一心は、必ず力を受けるです。それは、それこそ手の平を返すような、おかげが展開してくるというのはです。
 そういう時に直面した時に、そういう腹が出来た時ですね、おかげを受けるのは。ですからそこにぐずぐずしておると言う様な事ではない。本当にスキッとですね。その職人を一人断らせて貰うたら、他の職人達は落ち着くかもしれん。けれども高橋さん自身はそれによって、おかげは受けても力を受ける事はないと思うその信心では。一心を立つればおかげになるとか、一心を立つれば御徳になるとかという風に言うならばです。おかげにはなっても、御徳にはならない。力にはならない。
 力になるのは只今申しますような、例え他の職人小僧が、その為に止めると言い合わせてもです。それこそままよという腹を据えてかからせて頂くと言う所からです。それはまた不思議な働きが生まれてくるです。そういう体験を積む時にです。確かに力を受ける様に、是は私自身の信心を思うともうそういう時に、力を頂いておるとするならば、受けたなと思うので御座います。ですからこれはね本当に信心の稽古を本気でさせて貰おうという腹を、一心に決めなければ、出来る事じゃありません。
 そこで私は今日色々一心を申しましたが、ここで言うすぐにおかげが受けられるという程しの一心とは、神様の心と一心になるという事です。そこで本気で真の人にもならせて貰おう、真の信心も分からせて頂こうという姿勢が出来ましたらです。やや神様の心に添う事になってきたけれども。まだ交流という事までにはならんのです。真の信心に姿勢を向けたというだけですから。
 そして只今も申しますように、真の信心という事が甲も乙も丙も、皆同じかと言うとそうではない。一人一人に神様の働き掛けというのは違うのだ。だからどうでもその人のものでなからなければならん。そこでですそんなら私が二十数年前に、神様にお願いをさせて頂いた。願っても願ってもおかげにならん。置いたものを取るようなおかげを頂いた時代があったかと思うとです。その後にはもう右と願えば左、左と願えば右と言った様な状態が続いた時にです。
 もう私の願いなぞというものは、金輪際しまいと思うた。そして私のようなつまらん者にでもです。天地の親神様の願いというものが掛けられてある筈だと、天地の親神様の願いが、私に掛けられておるのであろうからです。その願いが成就する事の為の修行をさせて頂こうという気になった。親先生のお取次を頂いて、そういう願いもさせて頂いた。大坪総一郎の願いが成就致しますようにではなくて、天地の親神様の願いが、成就する事の為の修行なら、どんな修行もいといません。
 例えばよし様々な事が起きてくる。例えば、高橋さんの例を申しましたが、そげな事しよったらです。他の職人小僧達が止めてしまうような事になるかもしれん。店を休業しなければならんような事があるかもしれんけれどもです。こと私に下さったその事柄をです。私が受けていこうと言う様な姿勢を取らせて頂く時にです。所謂神様と直通する所のおかげのルートと言うか、御徳のルートがそこに開けるのです。
 ですから真の信心を分かりたい、真の人になりたいという人は、金光様の信者の中に沢山あるです。合楽なんかに他所の信者さん方が参って来ると、如何にも合楽に来ると、真の信心がそこに転がっておるように思うて、先生どげな信心したら真の信心になりましょうかと言うて、お伺いなさる方があります。ですから口でこげんばいと言うて、教えられる事ではないのです。その人その人によって神様の思いというものは違うのだから、だから銘々自身がです。
 真の信心が分かりたい真の人になりたい、と言うならばです。真にならせて頂く稽古。それを教祖のお言葉を借りるとです、天地日月の心になる事肝要なりという事になるのです。そこで天地日月の心とは、どういう心かという事を、色々究めて参りますとです。例えば成り行きを大事にするとか、又は全てを御事柄として受けていくとかという事になるのです。それが神様が私に求め給う所の信心であり真の人になる為の、真の信心を分からして下さる事の為の修行だと言う事になって参りましたらです。
 真の人にも段々ならして頂けるだろう。真の信心も愈々分からせて貰うから、真のおかげが頂ける様になってくる訳です。だから私は今日はその一心を出すと、すぐにおかげが受けられるという一心とは、神様の心と私共が一つになるという事だという事を、今日は聞いて頂いたので御座います。だからどうしてもその真意が悟れなければ、神様の心が分からなければ、私に掛けられる神様の願いというものが分からなければ。
 ですからそういう真の信心が分かりたいという姿勢を、まず正すという事と同時に、真の信心を愈々体得させて頂く事の為の修行ならば、さらさら厭わない。それを自分であげな修行もしょう、こげな修行もしょうと言う様な、言わば雑修行とでも申しましょうか。そういう修行もいけない事ではありませんけれどもです。一番神様があなたに求めておられる所の修行。
 それは成り行きの中から、御事柄の中から頂いていく以外にはないと、私は現在の所では確信しておる。という一心をそこに燃やす時、初めてすぐにおかげが受けられるというおかげになってくると思うのです。ここで言うおかげは只御利益という意味じゃないと思うですね。本当に神様と交流すると言うか、神様の御信用を頂くと言うか。そういう所謂御神徳の頂けるおかげという風に、今日の御理解からは頂いて頂きたいと思う。
   どうぞ。